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職質に答えるのは義務ではないですよ~だ。

2日連続で、職質で囲まれてかえれなくなった人の連れだしの依頼。
 

警察官は、職質なので答えてもらわないと困ります、とばかなことを言っていたが、警察署の宿直責任者の指示で警察が素直に引っ込んで、僕の事務所のある新宿まで警官が一人ついてきて世間話をしただけで昨日はうまくいった。
 

で、今日はというと、最初は電話でパトカーに押し込められて出してもらえないと言っていたが、弁護士に電話したら帰っていいよと言われた、というので、とりあえずガサに対する対策を考えたりとかして警察が本件を終わりにするまで事務所にいてもらおうと思ったのだが、勝手に家に帰ってしまって、家から「警官隊に囲まれました。助けてください」と電話が入った。
僕は僕の言うことを聞かない人の弁護はしないからね~、と言って電話をガチャ切りした。

まあ、二人ともシャブなのだが(一人目は自宅に所持していて、どうしようと言っていた。僕は、自分で捨てるのなら問題ないが人に捨ててもらうとそのひとは証拠隠滅罪になる、と言ったのに組の部下になんだか電話しているので、ぼくは席をはずした。)、よくまあ僕のところを知ったもんだ。類友?


東京の街が奏でる

 小沢健二のコンサート「東京の街が奏でる」を聴いてきた。
 「ひふみよ」のときはみんな懐かしくて大はしゃぎ、という雰囲気だったけど今回は弦楽四重奏(と言われてもなんのことかはわからない)で静かに耳を傾けるシックな感じだったり、だとおもえばいきなりオザケンがテンションあげて会場に振ったり、またちがった趣があった。
 

 二曲ほど新曲を披露していたけど、オザケンに新曲はいらないんじゃないかな、って思った。僕の友達がブログでオザケンのことを「私達の学生時代のテーマソング」と表現していたが、その位置づけでしか僕は聴けない。
 ちなみに、「ひふみよ」のライブCD三枚組と本2冊と歌詞カード兼写真何十枚かと写真立てたくさんが1セットになった「我ら、時」がパルコミュージアムで開催中の小沢健二展覧会限定で売ってるそうです。高いです。あいつ商売人です。


僕の家

「僕の家は、シャンゼリゼ通りをずっと東に行ったところにあります。」
 

嘘は言ってない。


英語の訛り

「わたしが英語に不自由した原因は、イギリス英語の特殊性にある。イギリス人の英語に接して最初に気がついたことは、英語といっても非常に強いなまりがあることだった。わたしが中学校以来学んできた明瞭で気品のあるクイーンズ・イングリッシュをしゃべる人は皆無で、女王でさえ、テレビで観たら、なまっていたほどである。
 なまりのある英語は聞き取りにくい。南アフリカなまり、ロンドンのコックニーなまり、オーストラリアなまり、ブルックリンなまり、テキサスなまりなど。もちろん、アメリカ西海岸なまり、クイーンズ・イングリッシュなまり、というのも聞き取りにくい。
 そもそも英語に限らず、ドイツ語、フランス語、などのヨーロッパの言語は、もとは、ゲルマン語とかラテン語の方言として成立したものである。だから、もともとこれらの言語はすべてなまっているのであって、青森弁がなまりのために聞き取りにくいのと同じく、聞き取りにくいのも当然である。それを聞き取れないのは、ふだん、なまりのない言語を使っている証拠であって、自慢してもおかしくないことなのだ。インド・ヨーロッパ語全体がなまっている可能性もある、と私はにらんでいる。」
(土屋賢二「われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う」)

 

昔、同期が留学に行き始めたころ、僕もスポンサーになってくれる外国法事務弁護士の事務所に就職していて、留学を考えていたことがあるのだが、トフルのヒアリングで挫折してしまい、事務所でも閑古鳥が鳴いていたこともあって、いま一般民事の道を歩んでいる。
一般民事はいいのだが、留学して、子供を帰国子女にして、できればアメリカで一般民事をしたかった。ハワイなんか需要ないだろうか。

トフルのヒアリングも、なまってたのか聞き取りに悔いことこの上なく、上達しない自信を持ってしまった。


腹を立てないソクラテス

「怒りっぽい人と対照的に、まったく腹をたてなかったのはソクラテスである。かれの妻クサンチッペは悪妻として有名だが、ソクラテスは何をされても腹を立てなかった。
『いつもガミガミ言われ、あんな仕打ちを受けて、どうして起こらないのか』とたずねられたソクラテスは、
『相手がロバなら、誰だって怒らないだろう』
と答えたという。また、別のときには、
『ガチョウがガアガア鳴いたからといって君は怒るかね』
と答えた。このことから分かることは、ソクラテスは少なくとも二回質問されたことである。少なくとも二人の人間が不思議に思うほど、かれはひどい扱いをされても腹を立てなかったのである。クサンチッペがこの答を聞いて喜ぶはずはない。こんな対応をされるくらいなら、怒鳴り返す夫の方がはるかに許せるだろう。ソクラテスは、妻が腹を立ててバケツの水をかけたときも、
『雨に降られて怒る者はいない』
と平然としていたという。ここまでナメた態度をよくとれたものだと思う」(土屋賢二「われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う」)

 

僕も最近はかみさんがロバやガチョウに思える域に達してきた。


君が代・日の丸

「君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
 

学校教育の現場で式典の際に日の丸掲揚、国歌斉唱を義務付けるのは適法という司法判断が定着しつつある。
僕はどちらかと言うと右派なので異論はないのだが、そうやって子供たちに日の丸と君が代を植え付けておいて、大人になってから黒い車で日の丸を掲げながら君が代を拡声器で流していると機動隊が韓国大使館前の国道20号を封鎖してしまい通れない。
裁判ぎりぎりのときなんかはいい迷惑だ。
 

矛盾していると思うのは僕だけか? 


学生時代、教養課程をしっかり勉強しておけばよかった・・・

半分くらいの科目を#したが、とりあえず放送大学の試験が終わったー。
本当は試験勉強なんかじゃなくて、ゆっくりと興味のある本を読んでいたいのだけれども、なにせ法学以外の分野は基礎が高校生レベル以下。奈良時代と平安時代ってどっちが先だっけ…と悩んだり。いい国作ろう平安京?あれ、なんか変だな、という始末。

試験の成績はそこそこを期待できるのだが、試験技術で解いているので、試験が終わった今もいまいち理解していない。
 

自分で本を読み解く力ははたしてつくのでしょうか?
 

(#する、というのは東大駒場の用語で、試験放棄のことです。試験場に行かなかったり、問題文をみて白紙で提出したり、答えは書いてはみたものの気に入らないので大きく×をつけて「放棄」と書いたりすることをいいます。当然不可がつきますが、不可の科目は再登録ができるので、可がつくよりももっと勉強して来学期に優をねらえるので まし、と考える人たちがする便法です。)


この仕事って、面白い?

「彼女は、ビールをゆっくり飲みながら、大きな瞳であたりを見回している。
『ねえ、この仕事って、おもしろい?』
『別に・・・』
と僕。
『じゃあ、すごく退屈?』
『それほどでもない』
『・・・・・・結局、やる気ないんだ・・・・・・』
『かもしれない・・・・・・』
僕が言うと、彼女は初めて笑顔を見せた。
『脱力してるんだ・・・・・・いいね・・・・・・』
と言った。やがて、ビールを飲み終わる。」(喜多嶋隆「もう、若くはないけど」)

 

すべての仕事に全力を尽くします!とか言う人多いと思うけど、そりゃうそだ。気が進まないとか、やる気が起きないとか、やる気はあるんだけど目標のイメージがわかないとか、全力を尽くさない仕事は誰にでも絶対あるはず。

でも、おかねをもらう以上、絶対に合格点の成果は上げないといけませんね。


日本仏教の特徴

「(1)戒律軽視
 仏教では、戒律という釈迦が定めたという僧侶らが守るべき規則があり、その護持を誓う受戒儀礼を受けて初めて僧侶となる。戒律には250あり、その中でも不淫(性交の禁止)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗まない)、不妄語(我は悟ったと大言壮語しない)の4条項の違反は波羅夷罪といって、僧侶集団追放にあたる破戒である。
 したがって、不淫を守る限り、僧侶は結婚できないはずであるし、住職の息子が誕生するはずがないのであるが、実際には、日本の僧侶はみな妻帯しており、住職の子供が仏教系の大学に進学して仏教を学び寺を継ぐのが一般化している。
 日本の僧侶は破戒を当然のようにしているのである。
(2)葬式仏教
 葬式に従事するのは死の穢れに触れることであって、葬式に従事した場合には30日間謹慎することが定められており、もともとは僧侶が葬式に従事するのは天皇の崩御の場合など例外的な場合に限られていた。
 しかし、鎌倉新仏教が台頭すると、僧侶は積極的に葬式に従事するようになり、墓所の経営や葬祭の主催を行い、檀家制度を整えて革新的な収益基盤として受け入れるようになった。
(3)鎌倉新仏教の台頭
 本来は仏教は釈迦が説いた教えに基づくはずなのに、鎌倉時代には釈迦ではない阿弥陀仏に帰依して極楽往生を勧める阿弥陀信仰が隆盛し、現在僧侶となるべく勉強する内容は鎌倉時代に発生した鎌倉新仏教の祖師である法然、親鸞、一遍などの教えであって釈迦の教えではない。
 この点につき親鸞は、妻帯や阿弥陀信仰を「非僧非俗」(僧侶ではなく、俗人でもない)を主張して正当化していた。
(4)神仏習合
仏教は壮大な大系を持つにもかかわらず日本への土着化に成功し、日本の神々との融合にも成功した。苦しむ神を仏が助けるという論理や、神と言うのは実は仏が衆生救済のために仮に姿を変えて現れた存在であるという論理であり、寺の中に神社があり、僧侶と神主が同居するというのが一般的だった。この状態は明治元年の神仏分離令まで続いた。」
 

日本仏教の異常性を学ぶ以前に、仏教そのものを知りたかったなあ。


芸術から技術へ

課題
「プラトンは『法律』において『人間は神の玩具』(803C)のようなもので、神々の定めた歌と踊りを模範とした行為を行うことで正しく生きられるとかつては考えられていたと指摘している。これに対しカントは『道徳形而上学原論』において『道徳性を実例に求めようとする企てにもまして道徳性を誤るものはあり得ないだろう』(岩波文庫p56) と指摘している。それでは、行うべき行為について範例を具体的に示して指示することと普遍的な概念だけを用いて指示することとの相違点はどこにあるか。さらに双方の指示が持つ長所と短所はどのようなものか」
 

 「アテナイの客人曰く『真剣な事柄については真剣であるべきであるが、真剣でない事柄については真剣であるな』『本来神は全ての浄福な真剣さに値するものであるが人間の方は神の何らかの玩具として工夫されたものであり、実際このことが人間にとって最善のことなのだ。ゆえにすべての男も女もできるだけ見事な遊びを楽しみながらその生涯を送らなければならない』『ひとは一種の遊びを楽しみながら、つまり犠牲を捧げたり歌ったり踊ったりしながら生涯を過すべきである。そうすれば神の加護をわが身に受けることができるし、敵を防ぎ、戦っては勝利を収めることができる』と述べている。
 真剣であるべきでない事柄によって引き起こされるのが、たとえば戦争である。
 神から具体的な範例を指示されて行為するときには、その範例は神から指示されたものであるから、その行為は無難である。結果において過ちを犯すことがない。しかし、ここには人間の判断が入ってこない。文字通り「神のおもちゃ」に堕している。
 これに対して普遍的な概念だけを用いて行うべき行為を考えるときには、そこに行為者の判断が加わる。17世紀の哲学においては、理性や知性は「永遠の真理」の領域に属しており、理性の力によって我々は神々の内なる真理をみると考えられるようになった。つまり、感性的な認識は真の認識を妨げる過ちの原因とされ、「真理は純粋な悟性と理性との観念のうちにのみ存する」のである。
 これはずいぶんと人間を信頼した人間観である。具体的な範例を指示されて行為するときには、その範例に過ちがなければ行為に過ちもおきないのであるが、普遍的な概念だけで行為を指示されたときには、その概念を解釈する段階、その解釈に基づきとるべき行為を判断する段階の2段階で人間は過ちを犯す可能性がある。
 しかし、おもちゃのように遊ばれるだけでは窮屈だ。考える能力を持つことで人間は行動の幅を大いに広げることができた。また、神の指示という様々な範例も、実際には神ではなく人間の誰かが示した範例である。このような範例に道徳性を求めようと企てるならば、神をかたる怪しげな人間に翻弄されて、道徳性を誤る危険があるであろう。」
 

・・・うーん、いまいちの出来だ。


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