課題
「自分自身の存在意義について、不安の概念を通して述べなさい(4000字以上)」
ソーシャルネットワークサービス(SNS)がはやっている。ツイッターやフェイスブックなどが代表例である。自分がいま思っていることを書き込み、それに対し他のユーザーがフォローの書き込みをする、というシステムなのだが、これをはじめると、やっかいな不安に襲われることがある。
自分の書き込みにフォローがつかない。自分はみんなに無視されている。嫌われているんだ・・・
自分がフォローしている人の全員にコメントを返しているかどうかを考えれば、この不安は根拠がないことがすぐにわかるのであるが、頭でわかることと無意識下で理解することとは雲泥の差がある。「みんながつながる」ことを目的としたSNSが、自分が人とつながっていないのではないかという不安を持たせる機能を持ってしまうのである。
SNSに限ったことではない。1990年代前半にポケベルを買った人は、ポケベルが鳴らなくて不安になったし(国分万里の曲に「ポケベルが鳴らなくて」という曲がある。)、携帯電話が普及したら、携帯が鳴らないことに不安になり、携帯でメールができるようになったら、メールが来ないことに不安になる(奥田英朗の「イン・ザ・プール」所収の「フレンズ」には、一日200通くらいメールを送り友達がたくさんいると豪語していた少年が、携帯電話が壊れてしまっただけで自分に来ているかもしれないメールに返信しないと相手が不安になるのではないかと不安になり、携帯が故障したと誰と誰と誰と誰と誰にメールしてくれと友達にすがりつくなどパニックに陥り、病院を訪れ、結局誰もメールなど送ってくれていなかった、自分は友達がいっぱいいると思っていたが本当の友達は一人もいなかったのだ、という事実を受け入れられるようになるという物語がある。)。
一神教の世界では自分と神が相対し、そこで完結する。「人間は自由の刑に処せられて」おり、自らの主体的な行動に対する責任が果たせるかどうかが不安の根源となっている。つまり、自分の行動に伴う責任は神に対する責任なのである。
1972年10月、ある飛行機が気温マイナス40度のアンデス山脈の山中に不時着した。乗客たちは食べるものがなくなり、先に死んだ乗客の死体を食べて、17人が生き延びた。乗客たちはウルグアイ人であったが、食べ物がなくなったとき、死ぬか死体を食べるかの選択を迫られたのである。生き残るために人の死体を食べることになった事件は、このほかに第二次大戦後、世界に10件ほどあるそうである。
乗客たちは、全体で議論を重ねるとともに、1人1人、神と対話して、食べるかどうかを決めたそうである。
このように神との対話を通じてなすべきことを探っているときには、人は、どうすればいいか「考え」てはいるが、「悩んで」はいない。
考えることと悩むことは違う。
「考えるっていうのは、劇団を旗揚げして、やっていけるのかどうかーじゃあ、まず日本の演劇状況を調べてみよう、自分がやりたい芝居と似たような劇団はあるのか、似たような劇団があればどれぐらいのお客さんが入っているのか、自分の書く台本は演劇界の中でどれくらいの水準なのかーそういうことをあれこれ思うのを考えるっていうんだよ。当然、調べたり、人に聞いたりもするよね。悩むっていうのは『劇団の旗揚げ、うまくいくかなあ・・・どうかなあ・・・どうだろうなあ・・・』ってウダウダすることだよ。長い時間悩んでも、なんの結論も出ないし、アイデアも進んでないだろ。考える場合は違うよ。長時間考えれば、いろんなアイデアも出るし、意見もたまる。な、悩むことと考えることは違うんだよ」(鴻上尚史「孤独と不安のレッスン」)
神の前に立つ単独者として個人の実存を重視するキリスト教文明下では、神との対話を通じて主体的に行動できるようになる。
これに対して、神にいい加減な日本では、個人的に問いかける神を我々は持っていない。
SNSでフォローがつかないことを気に病んでいる人は、どうしてフォローがつかないか悩んではいるが、どうすればフォローがつくようになるか考えてはいないのである。友達ができない人は、どうして友達ができないか悩んではいるが、どうすれば友達ができるのか考えてはいないのである(別に友達がいないことくらい考えるに値いしないことではあるが。)。
考えようにも、どこから考え始めればいいのかわからないのだ。物事を1人で考えるということには限界がある(というか不可能である、とすら言いきってしまいたいくらいである。)他人の考えを聞いて、それに対して自分がどう思うか反芻し、新たな意見を発表し、他人に考えてもらい、その結果のフィードバックを受けることで考えがまとまっていくのである(だから誰にも相談できず、参考にできる本もなく(キルケゴールの「不安の概念」は一人で読むには難しすぎる。)、期限が迫るこのレポートの執筆にあたっては私は考えることがなかなかできず、ただただ悩んだ。)。
個人の中に、神とは言わず何か絶対的なものを持っている人は、その絶対的なものに従って物事を考えればよい。しかし、それがなく、「みんな」がどうしているかを判断基準にしている人は、「みんな」から浮いてしまうことを恐れざるを得ない。「変わった人」と思われてしまえば、「みんな」は自分から離れていき、自分は判断の基準を見失ってしまうのである。
SNSでフォロワーが増えなければ不安になる心理や、メールが来ないと不安になる心理も、自分が「みんな」とつながっていることの確証をえたいがためのものということができるであろう。
香山リカは日本を「うつ病にかかっている国」と評した(文芸春秋2011年4月号)。
「ひとことで言えば、国家、社会が全体としてまさに『うつ病』にかかっているからだ、と思う。うつ病の基本的な症状とも言える『なにごとも悲観的にしか考えられない』『後悔、ノスタルジーなど過去ばかりに気持ちが向く』という傾向が強まっており、うつ病の背景に見られるといわれる認知のゆがみや心理的視野の狭窄化も顕著である。すなわち、『100かゼロかと極端な選択をしたがり、あいまいさを担保できない』『他人の言動を被害妄想的にしか受け取れず、誰のことも信用できない』『狭い視野で自分のことだけを考え、それを相対化することができない』といったことだ。これらが個人のレベルではなくて、国家的規模で起きているのがいまの日本といえる。」というのである。
このような心理的視野の狭窄化は、人生には目的があるという目的論的人生観に根ざしているように思われる。このような考え方に立つと、ひとたび目的をみいだせなくなるとすると、なんの光もなく、ひとり置き去りにされ、宇宙の一隅をさまよっているかのように、誰が自分をそこに置いたか、何をしにそこに来たのか、死んだらどうなるのかをも知らず、あらゆる認識を奪われているのをみるときにように、〈眠っているあいだに荒れ果てた恐ろしい島につれてこられ、醒めてみると自分がどこにいるのか分からず、そこから逃れ出る手段も知らない人〉のような恐怖に襲われる。
「1番じゃなきゃだめなんだ。2番じゃだめなんだ」-蓮訪大臣の「どうして2番じゃだめなんですか」発言は、皮肉なことに、日本中に1番じゃなきゃだめなんだという意識を芽生えさせた。このような意識は、0か100かを求めがちである。0は負け組で、100は勝ち組であることは明快であるが、では62点はどうなのだろうか。
私の卒業した中学・高校は60点未満が赤点で、50点以下が2科目相当の赤点とされていた。低空飛行は続けるとしても、絶対に赤点は取らない、それがプロだと民事裁判教官に教わった。この考え方からすると、62点は満足な点数である。某大手ITコンサルティング企業に勤めるキャリアウーマンのFBに
「こんなことも決まっていないの?リスク高すぎでしょ?無茶振りは勘弁、こんな条件でGOされても・・・と愚痴る若者に対して、上司のアドバイス。『制約が厳しい、無理だ、と諦めてしまったら、お客様の悩みはなんら解消されないんですよ。お客様は制約だのお達しだのに相当困っていて、それでもなんとか課題を乗り越えたいと思っているんです。みんなにとって良い方向に進めないか、突破口はないか、前向きに考えてこそ解決策が出てくるんですよ。ネガティブな思考で言い訳を探すのは今すぐやめなさい』
私にとっては、コンサルタント=よろずごと悩み解消人なので、常に前向きに、やるべきことを後回しにせずに今やることを心がけ、そして、鋭い分析とか、根本原因に訴求できる改善策の提案とか、そういった『カッコイイ』サービス提供も目指していきたいな、と思った出来事でした。」
という書き込みがあったので、「赤点でなければいいのでは?」と書き込んだら「そういう発想は私にはない」とのレスが返ってきて、僕のコメントは削除された。
ところで、私の職業は弁護士である。それも、貧困層を中心とした一般市民が対象の(すなわち、企業の仕事を引き受けない)弁護士である。前述のキャリアウーマンと、よろず悩み解消人という点ではまったく同じ役割を担っている。私の依頼者の悩みは、全て法律的な問題であるというわけではなく、離婚問題などは人生相談だったりする。
依頼者の話を聞きながら、依頼者の「悩み事」を「考え事」に変えていき、感情的な悩みを法律的な問題に昇華させていくのが、私の存在意義である。
ほとんどの依頼者は日本人なので、神との対話をすることもない。基本的には依頼者の不安の根源は神に対する責任などではなく、人間関係、「人に対する責任」である。つまり、相手がいるのである。
相手があることだから、きちんきちんと割り切れることはあまりない。
0か100かで割り切れるのはレアケースだというのが法律問題の特徴である。交渉事でも、どこまで押し通し、どこで引くかの見極めが求められる。100%勝ちに行こうとすると、判決で100%負けてしまう結果になることも多々あるので、ここら辺で満足しよう、と依頼者に納得させ、自分に降りかかった不安な法律問題を「過去の問題」に過ぎなくさせるのが私の仕事である。
そのために、必死になっている依頼者には、もう少しゆるーく生きていきましょうよ、とアドバイスしている。(4,261字)