2012年01月29日

学生時代、教養課程をしっかり勉強しておけばよかった・・・

半分くらいの科目を#したが、とりあえず放送大学の試験が終わったー。
本当は試験勉強なんかじゃなくて、ゆっくりと興味のある本を読んでいたいのだけれども、なにせ法学以外の分野は基礎が高校生レベル以下。奈良時代と平安時代ってどっちが先だっけ…と悩んだり。いい国作ろう平安京?あれ、なんか変だな、という始末。

試験の成績はそこそこを期待できるのだが、試験技術で解いているので、試験が終わった今もいまいち理解していない。

自分で本を読み解く力ははたしてつくのでしょうか?

(#する、というのは東大駒場の用語で、試験放棄のことです。試験場に行かなかったり、問題文をみて白紙で提出したり、答えは書いてはみたものの気に入らないので大きく×をつけて「放棄」と書いたりすることをいいます。当然不可がつきますが、不可の科目は再登録ができるので、可がつくよりももっと勉強して来学期に優をねらえるのでまし、と考える人たちがする便法です。)

2012年01月23日

この仕事って、面白い?

「彼女は、ビールをゆっくり飲みながら、大きな瞳であたりを見回している。
『ねえ、この仕事って、おもしろい?』
『別に・・・』
と僕。
『じゃあ、すごく退屈?』
『それほどでもない』
『・・・・・・結局、やる気ないんだ・・・・・・』
『かもしれない・・・・・・』
僕が言うと、彼女は初めて笑顔を見せた。
『脱力してるんだ・・・・・・いいね・・・・・・』
と言った。やがて、ビールを飲み終わる。」(喜多嶋隆「もう、若くはないけど」)

すべての仕事に全力を尽くします!とか言う人多いと思うけど、そりゃうそだ。気が進まないとか、やる気が起きないとか、やる気はあるんだけど目標のイメージがわかないとか、全力を尽くさない仕事は誰にでも絶対あるはず。

でも、おかねをもらう以上、絶対に合格点の成果は上げないといけませんね。

2012年01月13日

日本仏教の特徴

「(1)戒律軽視
 仏教では、戒律という釈迦が定めたという僧侶らが守るべき規則があり、その護持を誓う受戒儀礼を受けて初めて僧侶となる。戒律には250あり、その中でも不淫(性交の禁止)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗まない)、不妄語(我は悟ったと大言壮語しない)の4条項の違反は波羅夷罪といって、僧侶集団追放にあたる破戒である。
 したがって、不淫を守る限り、僧侶は結婚できないはずであるし、住職の息子が誕生するはずがないのであるが、実際には、日本の僧侶はみな妻帯しており、住職の子供が仏教系の大学に進学して仏教を学び寺を継ぐのが一般化している。
 日本の僧侶は破戒を当然のようにしているのである。
(2)葬式仏教
 葬式に従事するのは死の穢れに触れることであって、葬式に従事した場合には30日間謹慎することが定められており、もともとは僧侶が葬式に従事するのは天皇の崩御の場合など例外的な場合に限られていた。
 しかし、鎌倉新仏教が台頭すると、僧侶は積極的に葬式に従事するようになり、墓所の経営や葬祭の主催を行い、檀家制度を整えて革新的な収益基盤として受け入れるようになった。
(3)鎌倉新仏教の台頭
 本来は仏教は釈迦が説いた教えに基づくはずなのに、鎌倉時代には釈迦ではない阿弥陀仏に帰依して極楽往生を勧める阿弥陀信仰が隆盛し、現在僧侶となるべく勉強する内容は鎌倉時代に発生した鎌倉新仏教の祖師である法然、親鸞、一遍などの教えであって釈迦の教えではない。
 この点につき親鸞は、妻帯や阿弥陀信仰を「非僧非俗」(僧侶ではなく、俗人でもない)を主張して正当化していた。
(4)神仏習合
仏教は壮大な大系を持つにもかかわらず日本への土着化に成功し、日本の神々との融合にも成功した。苦しむ神を仏が助けるという論理や、神と言うのは実は仏が衆生救済のために仮に姿を変えて現れた存在であるという論理であり、寺の中に神社があり、僧侶と神主が同居するというのが一般的だった。この状態は明治元年の神仏分離令まで続いた。」

日本仏教の異常性を学ぶ以前に、仏教そのものを知りたかったなあ。

2012年01月06日

芸術から技術へ

課題
「プラトンは『法律』において『人間は神の玩具』(803C)のようなもので、神々の定めた歌と踊りを模範とした行為を行うことで正しく生きられるとかつては考えられていたと指摘している。これに対しカントは『道徳形而上学原論』において『道徳性を実例に求めようとする企てにもまして道徳性を誤るものはあり得ないだろう』(岩波文庫p56)と指摘している。それでは、行うべき行為について範例を具体的に示して指示することと普遍的な概念だけを用いて指示することとの相違点はどこにあるか。さらに双方の指示が持つ長所と短所はどのようなものか」

 「アテナイの客人曰く『真剣な事柄については真剣であるべきであるが、真剣でない事柄については真剣であるな』『本来神は全ての浄福な真剣さに値するものであるが人間の方は神の何らかの玩具として工夫されたものであり、実際このことが人間にとって最善のことなのだ。ゆえにすべての男も女もできるだけ見事な遊びを楽しみながらその生涯を送らなければならない』『ひとは一種の遊びを楽しみながら、つまり犠牲を捧げたり歌ったり踊ったりしながら生涯を過すべきである。そうすれば神の加護をわが身に受けることができるし、敵を防ぎ、戦っては勝利を収めることができる』と述べている。
 真剣であるべきでない事柄によって引き起こされるのが、たとえば戦争である。
 神から具体的な範例を指示されて行為するときには、その範例は神から指示されたものであるから、その行為は無難である。結果において過ちを犯すことがない。しかし、ここには人間の判断が入ってこない。文字通り「神のおもちゃ」に堕している。
 これに対して普遍的な概念だけを用いて行うべき行為を考えるときには、そこに行為者の判断が加わる。17世紀の哲学においては、理性や知性は「永遠の真理」の領域に属しており、理性の力によって我々は神々の内なる真理をみると考えられるようになった。つまり、感性的な認識は真の認識を妨げる過ちの原因とされ、「真理は純粋な悟性
と理性との観念のうちにのみ存する」のである。
 これはずいぶんと人間を信頼した人間観である。具体的な範例を指示されて行為するときには、その範例に過ちがなければ行為に過ちもおきないのであるが、普遍的な概念だけで行為を指示されたときには、その概念を解釈する段階、その解釈に基づきとるべき行為を判断する段階の2段階で人間は過ちを犯す可能性がある。
 しかし、おもちゃのように遊ばれるだけでは窮屈だ。考える能力を持つことで人間は行動の幅を大いに広げることができた。また、神の指示という様々な範例も、実際には神ではなく人間の誰かが示した範例である。このような範例に道徳性を求めようと企てるならば、神をかたる怪しげな人間に翻弄されて、道徳性を誤る危険があるであろう。」


・・・うーん、いまいちの出来だ。

2012年01月05日

和辻哲郎「日本倫理思想史」を読む

 中世と近世を分けるルネサンスが日本にもあった。応永永亨の47年間である。
 義将の筆による竹馬抄では、第一に行儀作法、第二に教育関係における親への従順、第三に宗教の本意が世のため人のためにあること、第四に恩賞を望む前にまず奉公にはげむこと、第五に他のために心をくだく積極的な仕方で奉公すべきこと、第六に巧拙を除外して修練すること、第七に人を使うに当たっては好悪によらず適材適所にすべきこと、第八は心正しく寛く教養のある人を友とすべきこと、第九は主観的な怒りは抑えつけること、第十に我執を捨てること、を指摘している。
 ここで私は第三と第八に注目したい。
 「心正直に慈悲あらん人を、神も仏もをろそかには見そなはたまじ」という第三の規準は、形式主義に陥ったカトリックを批判し「ただ信仰のみ」を重視するルターの宗教改革に似ている。
 また第八の規準であげられた「教養」は、奈良朝や平安朝の文芸を身につけることであった。「ルネサンス」の原義が文芸復興であることを想起させる。
 現代の大学では実学重視・教養部解体の動きが激しく、教養が軽んじられていることに照らせば、「軍人」である武士階級が、武士の勃興以前の古代の精神に触れ、武士であると同時に歌人として歌を詠むことをも要求されていたことは、ある意味で現代よりも文化的な社会が志向されていたと言うことができそうである。

2012年01月01日

現代の不安

課題
「自分自身の存在意義について、不安の概念を通して述べなさい(4000字以上)」

 ソーシャルネットワークサービス(SNS)がはやっている。ツイッターやフェイスブックなどが代表例である。自分がいま思っていることを書き込み、それに対し他のユーザーがフォローの書き込みをする、というシステムなのだが、これをはじめると、やっかいな不安に襲われることがある。
自分の書き込みにフォローがつかない。自分はみんなに無視されている。嫌われているんだ・・・
 自分がフォローしている人の全員にコメントを返しているかどうかを考えれば、この不安は根拠がないことがすぐにわかるのであるが、頭でわかることと無意識下で理解することとは雲泥の差がある。「みんながつながる」ことを目的としたSNSが、自分が人とつながっていないのではないかという不安を持たせる機能を持ってしまうのである。
SNSに限ったことではない。1990年代前半にポケベルを買った人は、ポケベルが鳴らなくて不安になったし(国分万里の曲に「ポケベルが鳴らなくて」という曲がある。)、携帯電話が普及したら、携帯が鳴らないことに不安になり、携帯でメールができるようになったら、メールが来ないことに不安になる(奥田英朗の「イン・ザ・プール」所収の「フレンズ」には、一日200通くらいメールを送り友達がたくさんいると豪語していた少年が、携帯電話が壊れてしまっただけで自分に来ているかもしれないメールに返信しないと相手が不安になるのではないかと不安になり、携帯が故障したと誰と誰と誰と誰と誰にメールしてくれと友達にすがりつくなどパニックに陥り、病院を訪れ、結局誰もメールなど送ってくれていなかった、自分は友達がいっぱいいると思っていたが本当の友達は一人もいなかったのだ、という事実を受け入れられるようになるという物語がある。)。
 一神教の世界では自分と神が相対し、そこで完結する。「人間は自由の刑に処せられて」おり、自らの主体的な行動に対する責任が果たせるかどうかが不安の根源となっている。つまり、自分の行動に伴う責任は神に対する責任なのである。
 1972年10月、ある飛行機が気温マイナス40度のアンデス山脈の山中に不時着した。乗客たちは食べるものがなくなり、先に死んだ乗客の死体を食べて、17人が生き延びた。乗客たちはウルグアイ人であったが、食べ物がなくなったとき、死ぬか死体を食べるかの選択を迫られたのである。生き残るために人の死体を食べることになった事件は、このほかに第二次大戦後、世界に10件ほどあるそうである。
 乗客たちは、全体で議論を重ねるとともに、1人1人、神と対話して、食べるかどうかを決めたそうである。
 このように神との対話を通じてなすべきことを探っているときには、人は、どうすればいいか「考え」てはいるが、「悩んで」はいない。
 考えることと悩むことは違う。

「考えるっていうのは、劇団を旗揚げして、やっていけるのかどうかーじゃあ、まず日本の演劇状況を調べてみよう、自分がやりたい芝居と似たような劇団はあるのか、似たような劇団があればどれぐらいのお客さんが入っているのか、自分の書く台本は演劇界の中でどれくらいの水準なのかーそういうことをあれこれ思うのを考えるっていうんだよ。当然、調べたり、人に聞いたりもするよね。悩むっていうのは『劇団の旗揚げ、うまくいくかなあ・・・どうかなあ・・・どうだろうなあ・・・』ってウダウダすることだよ。長い時間悩んでも、なんの結論も出ないし、アイデアも進んでないだろ。考える場合は違うよ。長時間考えれば、いろんなアイデアも出るし、意見もたまる。な、悩むことと考えることは違うんだよ」(鴻上尚史「孤独と不安のレッスン」)

 神の前に立つ単独者として個人の実存を重視するキリスト教文明下では、神との対話を通じて主体的に行動できるようになる。
 これに対して、神にいい加減な日本では、個人的に問いかける神を我々は持っていない。
 SNSでフォローがつかないことを気に病んでいる人は、どうしてフォローがつかないか悩んではいるが、どうすればフォローがつくようになるか考えてはいないのである。友達ができない人は、どうして友達ができないか悩んではいるが、どうすれば友達ができるのか考えてはいないのである(別に友達がいないことくらい考えるに値いしないことではあるが。)。
 考えようにも、どこから考え始めればいいのかわからないのだ。物事を1人で考えるということには限界がある(というか不可能である、とすら言いきってしまいたいくらいである。)他人の考えを聞いて、それに対して自分がどう思うか反芻し、新たな意見を発表し、他人に考えてもらい、その結果のフィードバックを受けることで考えがまとまっていくのである(だから誰にも相談できず、参考にできる本もなく(キルケゴールの「不安の概念」は一人で読むには難しすぎる。)、期限が迫るこのレポートの執筆にあたっては私は考えることがなかなかできず、ただただ悩んだ。)。
 個人の中に、神とは言わず何か絶対的なものを持っている人は、その絶対的なものに従って物事を考えればよい。しかし、それがなく、「みんな」がどうしているかを判断基準にしている人は、「みんな」から浮いてしまうことを恐れざるを得ない。「変わった人」と思われてしまえば、「みんな」は自分から離れていき、自分は判断の基準を見失ってしまうのである。
 SNSでフォロワーが増えなければ不安になる心理や、メールが来ないと不安になる心理も、自分が「みんな」とつながっていることの確証をえたいがためのものということができるであろう。

 香山リカは日本を「うつ病にかかっている国」と評した(文芸春秋2011年4月号)。
「ひとことで言えば、国家、社会が全体としてまさに『うつ病』にかかっているからだ、と思う。うつ病の基本的な症状とも言える『なにごとも悲観的にしか考えられない』『後悔、ノスタルジーなど過去ばかりに気持ちが向く』という傾向が強まっており、うつ病の背景に見られるといわれる認知のゆがみや心理的視野の狭窄化も顕著である。すなわち、『100かゼロかと極端な選択をしたがり、あいまいさを担保できない』『他人の言動を被害妄想的にしか受け取れず、誰のことも信用できない』『狭い視野で自分のことだけを考え、それを相対化することができない』といったことだ。これらが個人のレベルではなくて、国家的規模で起きているのがいまの日本といえる。」というのである。
 このような心理的視野の狭窄化は、人生には目的があるという目的論的人生観に根ざしているように思われる。このような考え方に立つと、ひとたび目的をみいだせなくなるとすると、なんの光もなく、ひとり置き去りにされ、宇宙の一隅をさまよっているかのように、誰が自分をそこに置いたか、何をしにそこに来たのか、死んだらどうなるのかをも知らず、あらゆる認識を奪われているのをみるときにように、〈眠っているあいだに荒れ果てた恐ろしい島につれてこられ、醒めてみると自分がどこにいるのか分からず、そこから逃れ出る手段も知らない人〉のような恐怖に襲われる。

「1番じゃなきゃだめなんだ。2番じゃだめなんだ」-蓮訪大臣の「どうして2番じゃだめなんですか」発言は、皮肉なことに、日本中に1番じゃなきゃだめなんだという意識を芽生えさせた。このような意識は、0か100かを求めがちである。0は負け組で、100は勝ち組であることは明快であるが、では62点はどうなのだろうか。
私の卒業した中学・高校は60点未満が赤点で、50点以下が2科目相当の赤点とされていた。低空飛行は続けるとしても、絶対に赤点は取らない、それがプロだと民事裁判教官に教わった。この考え方からすると、62点は満足な点数である。某大手ITコンサルティング企業に勤めるキャリアウーマンのFBに

「こんなことも決まっていないの?リスク高すぎでしょ?無茶振りは勘弁、こんな条件でGOされても・・・と愚痴る若者に対して、上司のアドバイス。『制約が厳しい、無理だ、と諦めてしまったら、お客様の悩みはなんら解消されないんですよ。お客様は制約だのお達しだのに相当困っていて、それでもなんとか課題を乗り越えたいと思っているんです。みんなにとって良い方向に進めないか、突破口はないか、前向きに考えてこそ解決策が出てくるんですよ。ネガティブな思考で言い訳を探すのは今すぐやめなさい』
私にとっては、コンサルタント=よろずごと悩み解消人なので、常に前向きに、やるべきことを後回しにせずに今やることを心がけ、そして、鋭い分析とか、根本原因に訴求できる改善策の提案とか、そういった『カッコイイ』サービス提供も目指していきたいな、と思った出来事でした。」

という書き込みがあったので、「赤点でなければいいのでは?」と書き込んだら「そういう発想は私にはない」とのレスが返ってきて、僕のコメントは削除された。
 ところで、私の職業は弁護士である。それも、貧困層を中心とした一般市民が対象の(すなわち、企業の仕事を引き受けない)弁護士である。前述のキャリアウーマンと、よろず悩み解消人という点ではまったく同じ役割を担っている。私の依頼者の悩みは、全て法律的な問題であるというわけではなく、離婚問題などは人生相談だったりする。
依頼者の話を聞きながら、依頼者の「悩み事」を「考え事」に変えていき、感情的な悩みを法律的な問題に昇華させていくのが、私の存在意義である。
 ほとんどの依頼者は日本人なので、神との対話をすることもない。基本的には依頼者の不安の根源は神に対する責任などではなく、人間関係、「人に対する責任」である。つまり、相手がいるのである。
 相手があることだから、きちんきちんと割り切れることはあまりない。
 0か100かで割り切れるのはレアケースだというのが法律問題の特徴である。交渉事でも、どこまで押し通し、どこで引くかの見極めが求められる。100%勝ちに行こうとすると、判決で100%負けてしまう結果になることも多々あるので、ここら辺で満足しよう、と依頼者に納得させ、自分に降りかかった不安な法律問題を「過去の問題」に過ぎなくさせるのが私の仕事である。
 そのために、必死になっている依頼者には、もう少しゆるーく生きていきましょうよ、とアドバイスしている。(4,261字)

2011年12月31日

啓蒙哲学について

 啓蒙哲学は主体的能動的自由市民からなる近代市民社会を前提としていた。ここでは行動・思想に責任が伴うので、自我が傷つくことがあった。
 また、このころの目的論的世界観は、目的を見いだせないとき、「なんの光もなく、ひとり置き去りにされ、宇宙のこの一隅にさまよっているかのように、誰が自分をそこに置いたか、何をしにそこに来たのか、死んだらどうなるかをも知らず、あらゆる認識を奪われているのを見るとき」のように「眠っているあいだに荒れ果てた恐ろしい島につれてこられ、さめてみると自分がどこにいるのか分からず、そこから逃れる手段も知らない人のような恐怖に襲われるので、宇宙は偶然に満ちていて目的はないという機械論的世界観を促した。
 このような啓蒙主義の過激化は、一方で反動を形成し、中世封建主義社会に価値を見出す懐古趣味的なロマン主義哲学も生み出し、両者はヘーゲルにおいて統合された。

2011年12月20日

2100年2月29日

ロプロのうっかりミスで遅延損害金の請求をし忘れてくれた案件があって(債務の額も1000円ちょっと)、いま担当者から、先生の希望通りの期日でいいですから支払って下さいよ~と泣きがはいった。
「でも遅延損害金がつかないからねえ。。。じゃあ、2100年2月29日限り支払うということでどう?」と僕。
「そんな時期私生きてませんよ―」と貸金業者。
「そんなこと言わず、長生きしてくださいよ」と僕。
1000円くらいはあるのだが、執行可能財産はないのであった。
どうしよっかなー

(ちなみに2100年2月に29日はない。)

2011年12月17日

収束宣言

「また、同じころかとよ、おびたたしく大地震ふること侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾ぶきて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとりには在所在所堂舎塔廟、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家のやぶるる音、雷にことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽根なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れの中に恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。」

「かくおびたたしくふる事はしばしにて止みにしかども、その余波、しばしは絶えず。よのつね、驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若は一日まぜ、二三日に一度など、おほかたその余波、三月ばかりや侍りけむ。四大種のなかに、水・火・風はつねに害なせど、大地にいたりては異なる変をなさず。昔、齊衡のころとか、大地震ふりて東大寺の仏の御首落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度には如かずとぞ。すなわちは、人みなあぢきなき事をのべて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日かさなり、年経にしのちは、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。」(鴨長明「方丈記」)

いつの時代も変わらんな。

2011年12月05日

ジンバブエの風はどちら向き?

ミニレポート2本目。あと1本。

「1 ジンバブエの歴史(植民地以前)
  ジンバブエには11-15世紀に栄えたブラックアフリカでは類例のないグレートジンバブエ遺跡と呼ばれる巨大な石造建築物がある。
  ブラックアフリカには文字がなかったため植民地以前の歴史には未知の部分が多いが、11-16世紀に交易のためこの地を訪れたアラブ人たちや16-19世紀に交易や移民のためにこの地を訪れたポルトガル人たちが書き残した資料によれば、11世紀から19世紀にかけてこの地ではジンバブエ王国・ムタパ王国・トルワ王国・ロジ王国・ンデベレ王国などが興亡した。
  グレートジンバブエ遺跡のあたりには、11世紀ごろからショナ族がやってきて定住し、モザンビークの東海岸からやってきたイスラム商人と交易、ジンバブエ特産の金と象牙を綿布やガラス・ビーズと交換し、この交易によって築かれた富と権力によって、西はボツワナ・タチ地域、東はモザンビーク海岸、南はリンポポ河、北はザンベジ河にわたる広大な地域に支配権を確立した。
  しかし、このグレート・ジンバブエは15世紀中ごろに突然姿を消す。理由は謎である。そして、各地に分散したショナ人のグループがジンバブエ王国から独立しはじめる。
  1420年代、北東部のショナ人のグループがムタパ王国を建国したが、16世紀はじめのポルトガル人の渡来とそれに続く同国征服の試みや内乱で同国は没落した。19世紀にはイギリスとポルトガルの植民地勢力がムタパ王国を破壊した。
  また、リンポポ河対岸のズル王国支配下のグニ族が北へ移動し、他部族との抗争を次々と繰り広げながら1820年代にはショナ人の住むマニカ地方を侵略し、ロジ王国は1840年代にグニ族の一グループであるンデベレ族の侵入により破壊され、ンデベレ王国が成立した。

2 ジンバブエの歴史(植民地以後)
  19世紀後半には、農地、狩猟権、鉱業採掘権を求めるイギリス人たちがショナ人の住む北部地域に関心を持ち始めた。とくに、南アフリカのダイヤモンドで巨富を築いたセシル・ローズはケープタウンからカイロまでイギリスの植民地にするという帝国主義的考えを実行に移すため、ジンバブエへの侵攻が必要と考えていた。そこでローズはンデベレ王ロベングーラを欺き、リンポポ河とザンベジ河に挟まれた地域の植民地化を許すラッド特権契約に署名させた。
 ロベングーラは使節をロンドンに派遣しビクトリア女王に特権否認を依頼したが無視され、イギリス南アフリカ会社の民兵がンデベレ王国に侵入し、ロベングーラは行方不明となり、ンデベレの住民は不毛の居留地に追いやられ、牛も没収された。そして、セシルローズの名にちなみ、1845年、ローデシアと名付けられたこの地は、移民者たちに分割された。
 ローデシアの行政はアフリカ人に抑圧的であったため、1896年にはマタベランドをはじめに一斉蜂起が起きるが(第一次チムレンガ)、鎮圧される。
 1899年には全議員が白人からなる立法議会が形成され、国名を南ローデシアと改称、アフリカ人に新しい諸課税と低賃金労働を課した。1923年には、南ローデシアはイギリス直轄の植民地となった。
 1953年には南ローデシアは北ローデシア(ザンビア)とニヤサランド(マラウイ)の3カ国からなるローデシア・ニヤサランド連邦を結成し、連邦の中核的存在となった。
 1964年に北ローデシアとニヤサランドは連邦を離脱して独立するが、イギリスは黒人多数支配が独立の大前提であるとして、少数白人支配の南ローデシアの独立を認めなかった。
 そこで白人急進派のローデシア前線党が政権をとると、英本国の承認のないまま勝手に、1965年11月11日、独立を宣言した。
 ローデシア前線党政権は、人種差別と居住地の分離を厳しく強制し、政党活動も禁止して民族主義指導者を投獄するなど黒人に対して過酷で抑圧的な諸政策を実施した。
 これに対し解放運動は武装闘争の道を選んだ。解放軍がローデシア領内に深く浸透するにつれ、身の危険を恐れた白人たちは毎月数千人の単位で国外に脱出し始めた。ローデシアがソ連陣営の手に渡る脅威を目前にして、アメリカが本格的に介入し、キッシンジャーが前面に立った。
 これを受けてローデシア前線党政権は、当初黒人の傀儡政権を擁立し、応急措置で乗り切ろうとした。
 しかしムガベ議長率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)とヌコモを議長とするジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)で結成した愛国戦線は一層厳しくゲリラ戦争に挑んだ。
 傀儡政権が国際的承認をえられなかったことや、引き続き英米による調停が進められた結果、1979年12月21日ランカスター協定が調印され、停戦・新憲法制定・6か月以内の総選挙の実施、が決まった。
 複数政党制のもとで行われた自由選挙で、ムガベは独立ジンバブエの初代首相となった。
 そして独立7周年を迎えた87年9月、独立憲法の期限切れを待って憲法改正を行い白人の特別議席を廃止するとともに、首相制から大統領制に移行し、ムガベが執行大統領に就任した。
 さらに1990年3月総選挙を行い、上院を廃止して下院のみの一院制をとり、直接選挙で大統領選挙を行い、ムガベは78%の得票率で再任された。

3 ジンバブエの経済の破綻
  独立から10年間はジンバブエは順調だった。とくに農業は白人テクノクラートの農事普及員の地道な活動で農家の信頼を勝ち取り、詳細な農村の状況が把握され、営農指導がされた。
  しかしムガベ政権の白人いじめで白人職員が次々と辞めていった。その結果農事普及員の待遇も悪くなり農業輸出国から農業輸入国に転落した。
  また、ムガベ政権は、1997年に元解放闘争ゲリラへの無計画な年金支給(1人一万円相当の一時金と月三万円相当の年金)を議会に諮らず、財源の手当ても考えないまま場当たり的に実施した。
これは新空港建設にからみ外国企業から裏金がムガベに渡ったという報道から、将校のクーデター騒ぎが起こるにいたり、軍に影響力のある元解放闘争ゲリラを懐柔するためにおこなったものである。
翌1998年、ムガベはコンゴへ派兵した。反政府ゲリラとの内戦が続いていたカビラ政権を支援するためである。この派兵の費用として兵士1人につき最低でも年に一万ドルはかかるところを、外貨準備不足にもかかわらず、ムガベは年間一億円以上の外貨を4年間つぎ込んだ。この派兵の動機はムガベが夫人のために買ったコンゴのダイヤモンド鉱山をゲリラから守るため、と言われている。
2000年にはムガベは白人農場の接収をおこなった。これで農業を中心とした経済は、完全に壊れてしまった。
ムガベ政権はもともと独立以来、旧宗主国の英国の費用負担で白人農地を収用して黒人貧困層に再配分する政策をすすめていた。しかし、収容した農地の整備を政府はしなかったため、多くの土地が不毛になってしまった。そこで、不満の矛先を他に向けるために行ったのが白人農場の接収だった。
この結果、白人農場主から雇われていた農業労働者は新農場主となるが、ノウハウがなく必要な投資もしないため土地は不毛となり、食事すら満足にできなくなり、多くの元農業労働者は都市に出た。
2008年の失業率は80%だった。
 2007年6月、ムガベは価格半減令を発令した。直前の1週間で3倍に物価は膨れ上がっていた。ムガベはこのインフレを英国の陰謀だとして、「すべての企業や商店はすべての商品の価格を半額にせよ。従わない企業は国有化する」と宣言し、その日の夕方、価格を半分にしなかったとしてスーパー経営者が逮捕された。
 半減令以前は月1000パーセント程度で推移していた月間インフレ率は半減令のあと急上昇し、7月には7634パーセントとなった。
 2008年3月29日、ジンバブエ大統領選挙が行われたが、ショナ族からムガベの他にツァンギライも立候補したため、長年の部族選挙が崩れ、暴力や恫喝などによるとても公平とは言い難い選挙になった。 
 同時に行われた下院議員選挙では野党が54%を取得して勝利したことが明らかになったが、大統領選挙の結果は4月になっても明らかにならず、そのうち選挙管理委員長が何も発表せず辞任してしまった。5月2日、ようやく両陣営とも過半数に達しなかったので決選投票をすると発表され6月末に再度大統領選挙がおこなわれることになった。
 その後、ジンバブエの行政は一切停止した。インフレ率も、2月の16万パーセントと発表されたのを最後に、公表されなくなった。」

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