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ブログ 2012年1月アーカイブ

学生時代、教養課程をしっかり勉強しておけばよかった・・・

半分くらいの科目を#したが、とりあえず放送大学の試験が終わったー。
本当は試験勉強なんかじゃなくて、ゆっくりと興味のある本を読んでいたいのだけれども、なにせ法学以外の分野は基礎が高校生レベル以下。奈良時代と平安時代ってどっちが先だっけ…と悩んだり。いい国作ろう平安京?あれ、なんか変だな、という始末。

試験の成績はそこそこを期待できるのだが、試験技術で解いているので、試験が終わった今もいまいち理解していない。
 

自分で本を読み解く力ははたしてつくのでしょうか?
 

(#する、というのは東大駒場の用語で、試験放棄のことです。試験場に行かなかったり、問題文をみて白紙で提出したり、答えは書いてはみたものの気に入らないので大きく×をつけて「放棄」と書いたりすることをいいます。当然不可がつきますが、不可の科目は再登録ができるので、可がつくよりももっと勉強して来学期に優をねらえるので まし、と考える人たちがする便法です。)


この仕事って、面白い?

「彼女は、ビールをゆっくり飲みながら、大きな瞳であたりを見回している。
『ねえ、この仕事って、おもしろい?』
『別に・・・』
と僕。
『じゃあ、すごく退屈?』
『それほどでもない』
『・・・・・・結局、やる気ないんだ・・・・・・』
『かもしれない・・・・・・』
僕が言うと、彼女は初めて笑顔を見せた。
『脱力してるんだ・・・・・・いいね・・・・・・』
と言った。やがて、ビールを飲み終わる。」(喜多嶋隆「もう、若くはないけど」)

 

すべての仕事に全力を尽くします!とか言う人多いと思うけど、そりゃうそだ。気が進まないとか、やる気が起きないとか、やる気はあるんだけど目標のイメージがわかないとか、全力を尽くさない仕事は誰にでも絶対あるはず。

でも、おかねをもらう以上、絶対に合格点の成果は上げないといけませんね。


日本仏教の特徴

「(1)戒律軽視
 仏教では、戒律という釈迦が定めたという僧侶らが守るべき規則があり、その護持を誓う受戒儀礼を受けて初めて僧侶となる。戒律には250あり、その中でも不淫(性交の禁止)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗まない)、不妄語(我は悟ったと大言壮語しない)の4条項の違反は波羅夷罪といって、僧侶集団追放にあたる破戒である。
 したがって、不淫を守る限り、僧侶は結婚できないはずであるし、住職の息子が誕生するはずがないのであるが、実際には、日本の僧侶はみな妻帯しており、住職の子供が仏教系の大学に進学して仏教を学び寺を継ぐのが一般化している。
 日本の僧侶は破戒を当然のようにしているのである。
(2)葬式仏教
 葬式に従事するのは死の穢れに触れることであって、葬式に従事した場合には30日間謹慎することが定められており、もともとは僧侶が葬式に従事するのは天皇の崩御の場合など例外的な場合に限られていた。
 しかし、鎌倉新仏教が台頭すると、僧侶は積極的に葬式に従事するようになり、墓所の経営や葬祭の主催を行い、檀家制度を整えて革新的な収益基盤として受け入れるようになった。
(3)鎌倉新仏教の台頭
 本来は仏教は釈迦が説いた教えに基づくはずなのに、鎌倉時代には釈迦ではない阿弥陀仏に帰依して極楽往生を勧める阿弥陀信仰が隆盛し、現在僧侶となるべく勉強する内容は鎌倉時代に発生した鎌倉新仏教の祖師である法然、親鸞、一遍などの教えであって釈迦の教えではない。
 この点につき親鸞は、妻帯や阿弥陀信仰を「非僧非俗」(僧侶ではなく、俗人でもない)を主張して正当化していた。
(4)神仏習合
仏教は壮大な大系を持つにもかかわらず日本への土着化に成功し、日本の神々との融合にも成功した。苦しむ神を仏が助けるという論理や、神と言うのは実は仏が衆生救済のために仮に姿を変えて現れた存在であるという論理であり、寺の中に神社があり、僧侶と神主が同居するというのが一般的だった。この状態は明治元年の神仏分離令まで続いた。」
 

日本仏教の異常性を学ぶ以前に、仏教そのものを知りたかったなあ。


芸術から技術へ

課題
「プラトンは『法律』において『人間は神の玩具』(803C)のようなもので、神々の定めた歌と踊りを模範とした行為を行うことで正しく生きられるとかつては考えられていたと指摘している。これに対しカントは『道徳形而上学原論』において『道徳性を実例に求めようとする企てにもまして道徳性を誤るものはあり得ないだろう』(岩波文庫p56) と指摘している。それでは、行うべき行為について範例を具体的に示して指示することと普遍的な概念だけを用いて指示することとの相違点はどこにあるか。さらに双方の指示が持つ長所と短所はどのようなものか」
 

 「アテナイの客人曰く『真剣な事柄については真剣であるべきであるが、真剣でない事柄については真剣であるな』『本来神は全ての浄福な真剣さに値するものであるが人間の方は神の何らかの玩具として工夫されたものであり、実際このことが人間にとって最善のことなのだ。ゆえにすべての男も女もできるだけ見事な遊びを楽しみながらその生涯を送らなければならない』『ひとは一種の遊びを楽しみながら、つまり犠牲を捧げたり歌ったり踊ったりしながら生涯を過すべきである。そうすれば神の加護をわが身に受けることができるし、敵を防ぎ、戦っては勝利を収めることができる』と述べている。
 真剣であるべきでない事柄によって引き起こされるのが、たとえば戦争である。
 神から具体的な範例を指示されて行為するときには、その範例は神から指示されたものであるから、その行為は無難である。結果において過ちを犯すことがない。しかし、ここには人間の判断が入ってこない。文字通り「神のおもちゃ」に堕している。
 これに対して普遍的な概念だけを用いて行うべき行為を考えるときには、そこに行為者の判断が加わる。17世紀の哲学においては、理性や知性は「永遠の真理」の領域に属しており、理性の力によって我々は神々の内なる真理をみると考えられるようになった。つまり、感性的な認識は真の認識を妨げる過ちの原因とされ、「真理は純粋な悟性と理性との観念のうちにのみ存する」のである。
 これはずいぶんと人間を信頼した人間観である。具体的な範例を指示されて行為するときには、その範例に過ちがなければ行為に過ちもおきないのであるが、普遍的な概念だけで行為を指示されたときには、その概念を解釈する段階、その解釈に基づきとるべき行為を判断する段階の2段階で人間は過ちを犯す可能性がある。
 しかし、おもちゃのように遊ばれるだけでは窮屈だ。考える能力を持つことで人間は行動の幅を大いに広げることができた。また、神の指示という様々な範例も、実際には神ではなく人間の誰かが示した範例である。このような範例に道徳性を求めようと企てるならば、神をかたる怪しげな人間に翻弄されて、道徳性を誤る危険があるであろう。」
 

・・・うーん、いまいちの出来だ。


和辻哲郎「日本倫理思想史」を読む

 中世と近世を分けるルネサンスが日本にもあった。応永永亨の47年間である。
 義将の筆による竹馬抄では、第一に行儀作法、第二に教育関係における親への従順、第三に宗教の本意が世のため人のためにあること、第四に恩賞を望む前にまず奉公にはげむこと、第五に他のために心をくだく積極的な仕方で奉公すべきこと、第六に巧拙を除外して修練すること、第七に人を使うに当たっては好悪によらず適材適所にすべきこと、第八は心正しく寛く教養のある人を友とすべきこと、第九は主観的な怒りは抑えつけること、第十に我執を捨てること、を指摘している。
 ここで私は第三と第八に注目したい。
 「心正直に慈悲あらん人を、神も仏もをろそかには見そなはたまじ」という第三の規準は、形式主義に陥ったカトリックを批判し「ただ信仰のみ」を重視するルターの宗教改革に似ている。
 また第八の規準であげられた「教養」は、奈良朝や平安朝の文芸を身につけることであった。「ルネサンス」の原義が文芸復興であることを想起させる。
 現代の大学では実学重視・教養部解体の動きが激しく、教養が軽んじられていることに照らせば、「軍人」である武士階級が、武士の勃興以前の古代の精神に触れ、武士であると同時に歌人として歌を詠むことをも要求されていたことは、ある意味で現代よりも文化的な社会が志向されていたと言うことができそうである。


現代の不安

課題
「自分自身の存在意義について、不安の概念を通して述べなさい(4000字以上)」
 

 ソーシャルネットワークサービス(SNS)がはやっている。ツイッターやフェイスブックなどが代表例である。自分がいま思っていることを書き込み、それに対し他のユーザーがフォローの書き込みをする、というシステムなのだが、これをはじめると、やっかいな不安に襲われることがある。
自分の書き込みにフォローがつかない。自分はみんなに無視されている。嫌われているんだ・・・
 自分がフォローしている人の全員にコメントを返しているかどうかを考えれば、この不安は根拠がないことがすぐにわかるのであるが、頭でわかることと無意識下で理解することとは雲泥の差がある。「みんながつながる」ことを目的としたSNSが、自分が人とつながっていないのではないかという不安を持たせる機能を持ってしまうのである。
SNSに限ったことではない。1990年代前半にポケベルを買った人は、ポケベルが鳴らなくて不安になったし(国分万里の曲に「ポケベルが鳴らなくて」という曲がある。)、携帯電話が普及したら、携帯が鳴らないことに不安になり、携帯でメールができるようになったら、メールが来ないことに不安になる(奥田英朗の「イン・ザ・プール」所収の「フレンズ」には、一日200通くらいメールを送り友達がたくさんいると豪語していた少年が、携帯電話が壊れてしまっただけで自分に来ているかもしれないメールに返信しないと相手が不安になるのではないかと不安になり、携帯が故障したと誰と誰と誰と誰と誰にメールしてくれと友達にすがりつくなどパニックに陥り、病院を訪れ、結局誰もメールなど送ってくれていなかった、自分は友達がいっぱいいると思っていたが本当の友達は一人もいなかったのだ、という事実を受け入れられるようになるという物語がある)。
 一神教の世界では自分と神が相対し、そこで完結する。「人間は自由の刑に処せられて」おり、自らの主体的な行動に対する責任が果たせるかどうかが不安の根源となっている。つまり、自分の行動に伴う責任は神に対する責任なのである。
 1972年10月、ある飛行機が気温マイナス40度のアンデス山脈の山中に不時着した。乗客たちは食べるものがなくなり、先に死んだ乗客の死体を食べて、17人が生き延びた。

乗客たちはウルグアイ人であったが、食べ物がなくなったとき、死ぬか死体を食べるかの選択を迫られたのである。生き残るために人の死体を食べることになった事件は、このほかに第二次大戦後、世界に10件ほどあるそうである。
 乗客たちは、全体で議論を重ねるとともに、1人1人、神と対話して、食べるかどうかを決めたそうである。
 このように神との対話を通じてなすべきことを探っているときには、人は、どうすればいいか「考え」てはいるが、「悩んで」はいない。
 考えることと悩むことは違う。
 

「考えるっていうのは、劇団を旗揚げして、やっていけるのかどうかーじゃあ、まず日本の演劇状況を調べてみよう、自分がやりたい芝居と似たような劇団はあるのか、似たような劇団があればどれぐらいのお客さんが入っているのか、自分の書く台本は演劇界の中でどれくらいの水準なのかーそういうことをあれこれ思うのを考えるっていうんだよ。当然、調べたり、人に聞いたりもするよね。悩むっていうのは『劇団の旗揚げ、うまくいくかなあ・・・どうかなあ・・・どうだろうなあ・・・』ってウダウダすることだよ。長い時間悩んでも、なんの結論も出ないし、アイデアも進んでないだろ。考える場合は違うよ。長時間考えれば、いろんなアイデアも出るし、意見もたまる。な、悩むことと考えることは違うんだよ」(鴻上尚史「孤独と不安のレッスン」)
 

 神の前に立つ単独者として個人の実存を重視するキリスト教文明下では、神との対話を通じて主体的に行動できるようになる。
 これに対して、神にいい加減な日本では、個人的に問いかける神を我々は持っていない。
 SNSでフォローがつかないことを気に病んでいる人は、どうしてフォローがつかないか悩んではいるが、どうすればフォローがつくようになるか考えてはいないのである。友達ができない人は、どうして友達ができないか悩んではいるが、どうすれば友達ができるのか考えてはいないのである(別に友達がいないことくらい考えるに値いしないことではあるが)。
 考えようにも、どこから考え始めればいいのかわからないのだ。物事を1人で考えるということには限界がある(というか不可能である、とすら言いきってしまいたいくらいである。)他人の考えを聞いて、それに対して自分がどう思うか反芻し、新たな意見を発表し、他人に考えてもらい、その結果のフィードバックを受けることで考えがまとまっていくのである(だから誰にも相談できず、参考にできる本もなく(キルケゴールの「不安の概念」は一人で読むには難しすぎる。)、期限が迫るこのレポートの執筆にあたっては私は考えることがなかなかできず、ただただ悩んだ。)。
 個人の中に、神とは言わず何か絶対的なものを持っている人は、その絶対的なものに従って物事を考えればよい。しかし、それがなく、「みんな」がどうしているかを判断基準にしている人は、「みんな」から浮いてしまうことを恐れざるを得ない。「変わった人」と思われてしまえば、「みんな」は自分から離れていき、自分は判断の基準を見失ってしまうのである。
 SNSでフォロワーが増えなければ不安になる心理や、メールが来ないと不安になる心理も、自分が「みんな」とつながっていることの確証をえたいがためのものということができるであろう。
 

 香山リカは日本を「うつ病にかかっている国」と評した(文芸春秋2011年4月号)。
「ひとことで言えば、国家、社会が全体としてまさに『うつ病』にかかっているからだ、と思う。うつ病の基本的な症状とも言える『なにごとも悲観的にしか考えられない』『後悔、ノスタルジーなど過去ばかりに気持ちが向く』という傾向が強まっており、うつ病の背景に見られるといわれる認知のゆがみや心理的視野の狭窄化も顕著である。すなわち、『100かゼロかと極端な選択をしたがり、あいまいさを担保できない』『他人の言動を被害妄想的にしか受け取れず、誰のことも信用できない』『狭い視野で自分のことだけを考え、それを相対化することができない』といったことだ。これらが個人のレベルではなくて、国家的規模で起きているのがいまの日本といえる。」というのである。
 このような心理的視野の狭窄化は、人生には目的があるという目的論的人生観に根ざしているように思われる。このような考え方に立つと、ひとたび目的をみいだせなくなるとすると、なんの光もなく、ひとり置き去りにされ、宇宙の一隅をさまよっているかのように、誰が自分をそこに置いたか、何をしにそこに来たのか、死んだらどうなるのかをも知らず、あらゆる認識を奪われているのをみるときにように、〈眠っているあいだに荒れ果てた恐ろしい島につれてこられ、醒めてみると自分がどこにいるのか分からず、そこから逃れ出る手段も知らない人〉のような恐怖に襲われる。
 

「1番じゃなきゃだめなんだ。2番じゃだめなんだ」-蓮訪大臣の「どうして2番じゃだめなんですか」発言は、皮肉なことに、日本中に1番じゃなきゃだめなんだという意識を芽生えさせた。このような意識は、0か100かを求めがちである。0は負け組で、100は勝ち組であることは明快であるが、では62点はどうなのだろうか。
私の卒業した中学・高校は60点未満が赤点で、50点以下が2科目相当の赤点とされていた。低空飛行は続けるとしても、絶対に赤点は取らない、それがプロだと民事裁判教官に教わった。この考え方からすると、62点は満足な点数である。某大手ITコンサルティング企業に勤めるキャリアウーマンのFBに
「こんなことも決まっていないの?リスク高すぎでしょ?無茶振りは勘弁、こんな条件でGOされても・・・と愚痴る若者に対して、上司のアドバイス。『制約が厳しい、無理だ、と諦めてしまったら、お客様の悩みはなんら解消されないんですよ。お客様は制約だのお達しだのに相当困っていて、それでもなんとか課題を乗り越えたいと思っているんです。みんなにとって良い方向に進めないか、突破口はないか、前向きに考えてこそ解決策が出てくるんですよ。ネガティブな思考で言い訳を探すのは今すぐやめなさい』
私にとっては、コンサルタント=よろずごと悩み解消人なので、常に前向きに、やるべきことを後回しにせずに今やることを心がけ、そして、鋭い分析とか、根本原因に訴求できる改善策の提案とか、そういった『カッコイイ』サービス提供も目指していきたいな、と思った出来事でした。」
という書き込みがあったので、「赤点でなければいいのでは?」と書き込んだら「そういう発想は私にはない」とのレスが返ってきて、僕のコメントは削除された。

 ところで、私の職業は弁護士である。それも、貧困層を中心とした一般市民が対象の(すなわち、企業の仕事を引き受けない)弁護士である。前述のキャリアウーマンと、よろず悩み解消人という点ではまったく同じ役割を担っている。私の依頼者の悩みは、全て法律的な問題であるというわけではなく、離婚問題などは人生相談だったりする。
依頼者の話を聞きながら、依頼者の「悩み事」を「考え事」に変えていき、感情的な悩みを法律的な問題に昇華させていくのが、私の存在意義である。
 ほとんどの依頼者は日本人なので、神との対話をすることもない。基本的には依頼者の不安の根源は神に対する責任などではなく、人間関係、「人に対する責任」である。
つまり、相手がいるのである。
 相手があることだから、きちんきちんと割り切れることはあまりない。
 0か100かで割り切れるのはレアケースだというのが法律問題の特徴である。交渉事でも、どこまで押し通し、どこで引くかの見極めが求められる。100%勝ちに行こうとすると、判決で100%負けてしまう結果になることも多々あるので、ここら辺で満足しよう、と依頼者に納得させ、自分に降りかかった不安な法律問題を「過去の問題」に過ぎなくさせるのが私の仕事である。
 そのために、必死になっている依頼者には、もう少しゆるーく生きていきましょうよ、とアドバイスしている。(4,261字)


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