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ジンバブエの風はどちら向き?

ミニレポート2本目。あと1本。
 

「1 ジンバブエの歴史(植民地以前)
  ジンバブエには11-15世紀に栄えたブラックアフリカでは類例のないグレートジンバブエ遺跡と呼ばれる巨大な石造建築物がある。
  ブラックアフリカには文字がなかったため植民地以前の歴史には未知の部分が多いが、11-16世紀に交易のためこの地を訪れたアラブ人たちや16-19世紀に交易や移民のためにこの地を訪れたポルトガル人たちが書き残した資料によれば、11世紀から19世紀にかけてこの地ではジンバブエ王国・ムタパ王国・トルワ王国・ロジ王国・ンデベレ王国などが興亡した。
  グレートジンバブエ遺跡のあたりには、11世紀ごろからショナ族がやってきて定住し、モザンビークの東海岸からやってきたイスラム商人と交易、ジンバブエ特産の金と象牙を綿布やガラス・ビーズと交換し、この交易によって築かれた富と権力によって、西はボツワナ・タチ地域、東はモザンビーク海岸、南はリンポポ河、北はザンベジ河にわたる広大な地域に支配権を確立した。
  しかし、このグレート・ジンバブエは15世紀中ごろに突然姿を消す。理由は謎である。そして、各地に分散したショナ人のグループがジンバブエ王国から独立しはじめる。
  1420年代、北東部のショナ人のグループがムタパ王国を建国したが、16世紀はじめのポルトガル人の渡来とそれに続く同国征服の試みや内乱で同国は没落した。19世紀にはイギリスとポルトガルの植民地勢力がムタパ王国を破壊した。
  また、リンポポ河対岸のズル王国支配下のグニ族が北へ移動し、他部族との抗争を次々と繰り広げながら1820年代にはショナ人の住むマニカ地方を侵略し、ロジ王国は1840年代にグニ族の一グループであるンデベレ族の侵入により破壊され、ンデベレ王国が成立した。
 

2 ジンバブエの歴史(植民地以後)
  19世紀後半には、農地、狩猟権、鉱業採掘権を求めるイギリス人たちがショナ人の住む北部地域に関心を持ち始めた。とくに、南アフリカのダイヤモンドで巨富を築いたセシル・ローズはケープタウンからカイロまでイギリスの植民地にするという帝国主義的考えを実行に移すため、ジンバブエへの侵攻が必要と考えていた。そこでローズはンデベレ王ロベングーラを欺き、リンポポ河とザンベジ河に挟まれた地域の植民地化を許すラッド特権契約に署名させた。
 ロベングーラは使節をロンドンに派遣しビクトリア女王に特権否認を依頼したが無視され、イギリス南アフリカ会社の民兵がンデベレ王国に侵入し、ロベングーラは行方不明となり、ンデベレの住民は不毛の居留地に追いやられ、牛も没収された。そして、セシルローズの名にちなみ、1845年、ローデシアと名付けられたこの地は、移民者たちに分割された。
 ローデシアの行政はアフリカ人に抑圧的であったため、1896年にはマタベランドをはじめに一斉蜂起が起きるが(第一次チムレンガ)、鎮圧される。
 1899年には全議員が白人からなる立法議会が形成され、国名を南ローデシアと改称、アフリカ人に新しい諸課税と低賃金労働を課した。1923年には、南ローデシアはイギリス直轄の植民地となった。
 1953年には南ローデシアは北ローデシア(ザンビア)とニヤサランド(マラウイ)の3カ国からなるローデシア・ニヤサランド連邦を結成し、連邦の中核的存在となった。
 1964年に北ローデシアとニヤサランドは連邦を離脱して独立するが、イギリスは黒人多数支配が独立の大前提であるとして、少数白人支配の南ローデシアの独立を認めなかった。
 そこで白人急進派のローデシア前線党が政権をとると、英本国の承認のないまま勝手に、1965年11月11日、独立を宣言した。
 ローデシア前線党政権は、人種差別と居住地の分離を厳しく強制し、政党活動も禁止して民族主義指導者を投獄するなど黒人に対して過酷で抑圧的な諸政策を実施した。
 これに対し解放運動は武装闘争の道を選んだ。解放軍がローデシア領内に深く浸透するにつれ、身の危険を恐れた白人たちは毎月数千人の単位で国外に脱出し始めた。ローデシアがソ連陣営の手に渡る脅威を目前にして、アメリカが本格的に介入し、キッシンジャーが前面に立った。
 これを受けてローデシア前線党政権は、当初黒人の傀儡政権を擁立し、応急措置で乗り切ろうとした。
 しかしムガベ議長率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)とヌコモを議長とするジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)で結成した愛国戦線は一層厳しくゲリラ戦争に挑んだ。
 傀儡政権が国際的承認をえられなかったことや、引き続き英米による調停が進められた結果、1979年12月21日ランカスター協定が調印され、停戦・新憲法制定・6か月以内の総選挙の実施、が決まった。
 複数政党制のもとで行われた自由選挙で、ムガベは独立ジンバブエの初代首相となった。
 そして独立7周年を迎えた87年9月、独立憲法の期限切れを待って憲法改正を行い白人の特別議席を廃止するとともに、首相制から大統領制に移行し、ムガベが執行大統領に就任した。
 さらに1990年3月総選挙を行い、上院を廃止して下院のみの一院制をとり、直接選挙で大統領選挙を行い、ムガベは78%の得票率で再任された。
 

3 ジンバブエの経済の破綻
  独立から10年間はジンバブエは順調だった。とくに農業は白人テクノクラートの農事普及員の地道な活動で農家の信頼を勝ち取り、詳細な農村の状況が把握され、営農指導がされた。
  しかしムガベ政権の白人いじめで白人職員が次々と辞めていった。その結果農事普及員の待遇も悪くなり農業輸出国から農業輸入国に転落した。
  また、ムガベ政権は、1997年に元解放闘争ゲリラへの無計画な年金支給(1人一万円相当の一時金と月三万円相当の年金)を議会に諮らず、財源の手当ても考えないまま場当たり的に実施した。
これは新空港建設にからみ外国企業から裏金がムガベに渡ったという報道から、将校のクーデター騒ぎが起こるにいたり、軍に影響力のある元解放闘争ゲリラを懐柔するためにおこなったものである。
翌1998年、ムガベはコンゴへ派兵した。反政府ゲリラとの内戦が続いていたカビラ政権を支援するためである。この派兵の費用として兵士1人につき最低でも年に一万ドルはかかるところを、外貨準備不足にもかかわらず、ムガベは年間一億円以上の外貨を4年間つぎ込んだ。この派兵の動機はムガベが夫人のために買ったコンゴのダイヤモンド鉱山をゲリラから守るため、と言われている。
2000年にはムガベは白人農場の接収をおこなった。これで農業を中心とした経済は、完全に壊れてしまった。
ムガベ政権はもともと独立以来、旧宗主国の英国の費用負担で白人農地を収用して黒人貧困層に再配分する政策をすすめていた。しかし、収容した農地の整備を政府はしなかったため、多くの土地が不毛になってしまった。そこで、不満の矛先を他に向けるために行ったのが白人農場の接収だった。
この結果、白人農場主から雇われていた農業労働者は新農場主となるが、ノウハウがなく必要な投資もしないため土地は不毛となり、食事すら満足にできなくなり、多くの元農業労働者は都市に出た。
2008年の失業率は80%だった。
 2007年6月、ムガベは価格半減令を発令した。直前の1週間で3倍に物価は膨れ上がっていた。ムガベはこのインフレを英国の陰謀だとして、「すべての企業や商店はすべての商品の価格を半額にせよ。従わない企業は国有化する」と宣言し、その日の夕方、価格を半分にしなかったとしてスーパー経営者が逮捕された。
 半減令以前は月1000パーセント程度で推移していた月間インフレ率は半減令のあと急上昇し、7月には7634パーセントとなった。
 2008年3月29日、ジンバブエ大統領選挙が行われたが、ショナ族からムガベの他にツァンギライも立候補したため、長年の部族選挙が崩れ、暴力や恫喝などによるとても公平とは言い難い選挙になった。 
 同時に行われた下院議員選挙では野党が54%を取得して勝利したことが明らかになったが、大統領選挙の結果は4月になっても明らかにならず、そのうち選挙管理委員長が何も発表せず辞任してしまった。5月2日、ようやく両陣営とも過半数に達しなかったので決選投票をすると発表され6月末に再度大統領選挙がおこなわれることになった。
 その後、ジンバブエの行政は一切停止した。インフレ率も、2月の16万パーセントと発表されたのを最後に、公表されなくなった。」


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