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ブログ 2011年12月アーカイブ

啓蒙哲学について

 啓蒙哲学は主体的能動的自由市民からなる近代市民社会を前提としていた。ここでは行動・思想に責任が伴うので、自我が傷つくことがあった。
 また、このころの目的論的世界観は、目的を見いだせないとき、「なんの光もなく、ひとり置き去りにされ、宇宙のこの一隅にさまよっているかのように、誰が自分をそこに置いたか、何をしにそこに来たのか、死んだらどうなるかをも知らず、あらゆる認識を奪われているのを見るとき」のように「眠っているあいだに荒れ果てた恐ろしい島につれてこられ、さめてみると自分がどこにいるのか分からず、そこから逃れる手段も知らない人のような恐怖に襲われるので、宇宙は偶然に満ちていて目的はないという機械論的世界観を促した。
 このような啓蒙主義の過激化は、一方で反動を形成し、中世封建主義社会に価値を見出す懐古趣味的なロマン主義哲学も生み出し、両者はヘーゲルにおいて統合された。


2100年2月29日

ロプロのうっかりミスで遅延損害金の請求をし忘れてくれた案件があって(債務の額も1000円ちょっと)、いま担当者から、先生の希望通りの期日でいいですから支払って下さいよ~と泣きがはいった。
「でも遅延損害金がつかないからねえ。。。じゃあ、2100年2月29日限り支払うということでどう?」と僕。
「そんな時期私生きてませんよ―」と貸金業者。
「そんなこと言わず、長生きしてくださいよ」と僕。
1000円くらいはあるのだが、執行可能財産はないのであった。
どうしよっかなー
 

(ちなみに2100年2月に29日はない。)


収束宣言

「また、同じころかとよ、おびたたしく大地震ふること侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾ぶきて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとりには在所在所堂舎塔廟、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家のやぶるる音、雷にことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽根なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れの中に恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。」
 

「かくおびたたしくふる事はしばしにて止みにしかども、その余波、しばしは絶えず。よのつね、驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若は一日まぜ、二三日に一度など、おほかたその余波、三月ばかりや侍りけむ。四大種のなかに、水・火・風はつねに害なせど、大地にいたりては異なる変をなさず。昔、齊衡のころとか、大地震ふりて東大寺の仏の御首落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度には如かずとぞ。すなわちは、人みなあぢきなき事をのべて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日かさなり、年経にしのちは、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。」(鴨長明「方丈記」)

 

いつの時代も変わらんな。


ジンバブエの風はどちら向き?

ミニレポート2本目。あと1本。
 

「1 ジンバブエの歴史(植民地以前)
  ジンバブエには11-15世紀に栄えたブラックアフリカでは類例のないグレートジンバブエ遺跡と呼ばれる巨大な石造建築物がある。
  ブラックアフリカには文字がなかったため植民地以前の歴史には未知の部分が多いが、11-16世紀に交易のためこの地を訪れたアラブ人たちや16-19世紀に交易や移民のためにこの地を訪れたポルトガル人たちが書き残した資料によれば、11世紀から19世紀にかけてこの地ではジンバブエ王国・ムタパ王国・トルワ王国・ロジ王国・ンデベレ王国などが興亡した。
  グレートジンバブエ遺跡のあたりには、11世紀ごろからショナ族がやってきて定住し、モザンビークの東海岸からやってきたイスラム商人と交易、ジンバブエ特産の金と象牙を綿布やガラス・ビーズと交換し、この交易によって築かれた富と権力によって、西はボツワナ・タチ地域、東はモザンビーク海岸、南はリンポポ河、北はザンベジ河にわたる広大な地域に支配権を確立した。
  しかし、このグレート・ジンバブエは15世紀中ごろに突然姿を消す。理由は謎である。そして、各地に分散したショナ人のグループがジンバブエ王国から独立しはじめる。
  1420年代、北東部のショナ人のグループがムタパ王国を建国したが、16世紀はじめのポルトガル人の渡来とそれに続く同国征服の試みや内乱で同国は没落した。19世紀にはイギリスとポルトガルの植民地勢力がムタパ王国を破壊した。
  また、リンポポ河対岸のズル王国支配下のグニ族が北へ移動し、他部族との抗争を次々と繰り広げながら1820年代にはショナ人の住むマニカ地方を侵略し、ロジ王国は1840年代にグニ族の一グループであるンデベレ族の侵入により破壊され、ンデベレ王国が成立した。
 

2 ジンバブエの歴史(植民地以後)
  19世紀後半には、農地、狩猟権、鉱業採掘権を求めるイギリス人たちがショナ人の住む北部地域に関心を持ち始めた。とくに、南アフリカのダイヤモンドで巨富を築いたセシル・ローズはケープタウンからカイロまでイギリスの植民地にするという帝国主義的考えを実行に移すため、ジンバブエへの侵攻が必要と考えていた。そこでローズはンデベレ王ロベングーラを欺き、リンポポ河とザンベジ河に挟まれた地域の植民地化を許すラッド特権契約に署名させた。
 ロベングーラは使節をロンドンに派遣しビクトリア女王に特権否認を依頼したが無視され、イギリス南アフリカ会社の民兵がンデベレ王国に侵入し、ロベングーラは行方不明となり、ンデベレの住民は不毛の居留地に追いやられ、牛も没収された。そして、セシルローズの名にちなみ、1845年、ローデシアと名付けられたこの地は、移民者たちに分割された。
 ローデシアの行政はアフリカ人に抑圧的であったため、1896年にはマタベランドをはじめに一斉蜂起が起きるが(第一次チムレンガ)、鎮圧される。
 1899年には全議員が白人からなる立法議会が形成され、国名を南ローデシアと改称、アフリカ人に新しい諸課税と低賃金労働を課した。1923年には、南ローデシアはイギリス直轄の植民地となった。
 1953年には南ローデシアは北ローデシア(ザンビア)とニヤサランド(マラウイ)の3カ国からなるローデシア・ニヤサランド連邦を結成し、連邦の中核的存在となった。
 1964年に北ローデシアとニヤサランドは連邦を離脱して独立するが、イギリスは黒人多数支配が独立の大前提であるとして、少数白人支配の南ローデシアの独立を認めなかった。
 そこで白人急進派のローデシア前線党が政権をとると、英本国の承認のないまま勝手に、1965年11月11日、独立を宣言した。
 ローデシア前線党政権は、人種差別と居住地の分離を厳しく強制し、政党活動も禁止して民族主義指導者を投獄するなど黒人に対して過酷で抑圧的な諸政策を実施した。
 これに対し解放運動は武装闘争の道を選んだ。解放軍がローデシア領内に深く浸透するにつれ、身の危険を恐れた白人たちは毎月数千人の単位で国外に脱出し始めた。ローデシアがソ連陣営の手に渡る脅威を目前にして、アメリカが本格的に介入し、キッシンジャーが前面に立った。
 これを受けてローデシア前線党政権は、当初黒人の傀儡政権を擁立し、応急措置で乗り切ろうとした。
 しかしムガベ議長率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)とヌコモを議長とするジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)で結成した愛国戦線は一層厳しくゲリラ戦争に挑んだ。
 傀儡政権が国際的承認をえられなかったことや、引き続き英米による調停が進められた結果、1979年12月21日ランカスター協定が調印され、停戦・新憲法制定・6か月以内の総選挙の実施、が決まった。
 複数政党制のもとで行われた自由選挙で、ムガベは独立ジンバブエの初代首相となった。
 そして独立7周年を迎えた87年9月、独立憲法の期限切れを待って憲法改正を行い白人の特別議席を廃止するとともに、首相制から大統領制に移行し、ムガベが執行大統領に就任した。
 さらに1990年3月総選挙を行い、上院を廃止して下院のみの一院制をとり、直接選挙で大統領選挙を行い、ムガベは78%の得票率で再任された。
 

3 ジンバブエの経済の破綻
  独立から10年間はジンバブエは順調だった。とくに農業は白人テクノクラートの農事普及員の地道な活動で農家の信頼を勝ち取り、詳細な農村の状況が把握され、営農指導がされた。
  しかしムガベ政権の白人いじめで白人職員が次々と辞めていった。その結果農事普及員の待遇も悪くなり農業輸出国から農業輸入国に転落した。
  また、ムガベ政権は、1997年に元解放闘争ゲリラへの無計画な年金支給(1人一万円相当の一時金と月三万円相当の年金)を議会に諮らず、財源の手当ても考えないまま場当たり的に実施した。
これは新空港建設にからみ外国企業から裏金がムガベに渡ったという報道から、将校のクーデター騒ぎが起こるにいたり、軍に影響力のある元解放闘争ゲリラを懐柔するためにおこなったものである。
翌1998年、ムガベはコンゴへ派兵した。反政府ゲリラとの内戦が続いていたカビラ政権を支援するためである。この派兵の費用として兵士1人につき最低でも年に一万ドルはかかるところを、外貨準備不足にもかかわらず、ムガベは年間一億円以上の外貨を4年間つぎ込んだ。この派兵の動機はムガベが夫人のために買ったコンゴのダイヤモンド鉱山をゲリラから守るため、と言われている。
2000年にはムガベは白人農場の接収をおこなった。これで農業を中心とした経済は、完全に壊れてしまった。
ムガベ政権はもともと独立以来、旧宗主国の英国の費用負担で白人農地を収用して黒人貧困層に再配分する政策をすすめていた。しかし、収容した農地の整備を政府はしなかったため、多くの土地が不毛になってしまった。そこで、不満の矛先を他に向けるために行ったのが白人農場の接収だった。
この結果、白人農場主から雇われていた農業労働者は新農場主となるが、ノウハウがなく必要な投資もしないため土地は不毛となり、食事すら満足にできなくなり、多くの元農業労働者は都市に出た。
2008年の失業率は80%だった。
 2007年6月、ムガベは価格半減令を発令した。直前の1週間で3倍に物価は膨れ上がっていた。ムガベはこのインフレを英国の陰謀だとして、「すべての企業や商店はすべての商品の価格を半額にせよ。従わない企業は国有化する」と宣言し、その日の夕方、価格を半分にしなかったとしてスーパー経営者が逮捕された。
 半減令以前は月1000パーセント程度で推移していた月間インフレ率は半減令のあと急上昇し、7月には7634パーセントとなった。
 2008年3月29日、ジンバブエ大統領選挙が行われたが、ショナ族からムガベの他にツァンギライも立候補したため、長年の部族選挙が崩れ、暴力や恫喝などによるとても公平とは言い難い選挙になった。 
 同時に行われた下院議員選挙では野党が54%を取得して勝利したことが明らかになったが、大統領選挙の結果は4月になっても明らかにならず、そのうち選挙管理委員長が何も発表せず辞任してしまった。5月2日、ようやく両陣営とも過半数に達しなかったので決選投票をすると発表され6月末に再度大統領選挙がおこなわれることになった。
 その後、ジンバブエの行政は一切停止した。インフレ率も、2月の16万パーセントと発表されたのを最後に、公表されなくなった。」


ヘブライズムとヘレニズム

「1 ヘブライはユダヤ・キリスト教の伝統を指し、創世記1章1節に「初めに神は天と地を創造された」とあるように、創造者なる唯一神を主張する。人間や自然界は全能の神の手の中にあり、神は人間や万物を存在せしめ、積極的に人間界に介入する。
  ヘブライにおいては人間は「原罪」を背負い、知・情・意において堕落しており、絶対神の前で否定され、神の主権が徹底している。
  そしてヘブライの歴史観は、世界には始めと終わりがあり、終末に向かって進んでいくと考える。終末は、完成であり、破局であり、希望である。
 

2 ヘレニズムはギリシア・ローマの古典古代の伝統を指し、神のついての観念は多神教的であり、人間の理性を評価している。
  そしてヘレニズムの歴史観は円環的であり、宇宙(コスモス)が哲学的思考の中心に据えられる。
 

3 ヘブライズムにおいては、神という超越的権威の前にこの世の世俗的権威が相対化されるという認識があり、国家についても契約共同体としての性格を有している。
  これに対しヘレニズムでは「皇帝礼拝」が生じるなどしばしば世俗の政治的権力が神聖化され、国家については有機体としてとらえられる。
  皇帝ネロは、キリスト教とがローマ皇帝礼拝を拒否したりローマの神々に供物をささげて礼拝するのを拒否したことから、キリスト教徒を迫害した。63年のことである。
 

4 2世紀ごろ、キリスト教とギリシャ哲学との融合が始まった。ユスティノスは「トリュフォンとの対話」でキリスト教を新プラトン主義やストア派の哲学の助けを借りて弁証しようと試みた。これに先立ち、キリスト教神学のアレクサンドリア学派も、ギリシャ哲学とキリスト教を融合させようとし、聖書のギリシャ語訳(七十人訳聖書)も完成させている。
 

5 アウグスティヌスは354年に生まれ、430年に死んだ。373年にマニ教に入信したが、プロティノスの新プラトン主義に触れることによってマニ教の善悪二元論から解放され、387年に洗礼を受けキリスト教徒となった。
  プロティノスの思想は、すべての存在と価値の根源であり、永遠で、不変で、完全な神から魂が流れ出し、また魂はその根源である神に戻り神と合一する。そして、人は内なる超越を通して神と出会い、帰還する。
 

6 アウグスティヌスは「自由意志論」を執筆し自由意思を強調したペラギウスと論争し、人間の意思の腐敗と堕落、恩寵のみによる救済を強調した。
  384年にテオドシウス帝がローマの古代の神々への礼拝を禁止しキリスト教を国教と定めると、395年にローマ帝国は東西に分裂し、410年に西ローマ帝国に西ゴート族が侵入した。異教徒はこのとき永遠と考えていたローマの崩壊の兆候を感じ取り、ローマの陥落をローマ古来の神々を捨てたせいにしてキリスト教を攻撃した。
  これに対しアウグスティヌスは427年に「神の国」を執筆し、永遠の都ローマの崩壊の真の原因はローマの伝統的な神々をすてたことではなく、ローマの罪に対する神の裁きであることを主張した。そして、プラトンが「善のイデア」を知性の太陽にたとえ、「善のイデア」がそれに従属するもろもろのイデアを照らすと考えたが、アウグスティヌスは、自然的理性によっては人は永遠不変なものに到達できないから、永遠の真理が人間の精神に対して開示されるのは神の光によるものだと考えた(照明説)。
  アウグスティヌスは、世界史を神への愛に生きる集団である「神の国」と自己愛・欲望に従って生きる集団である「地の国」の不和・闘争・戦争として書いている。「地の国」には国家が属し、「神の国」には神を愛する人々の群れが属する。「神の国」は時間と空間を超えており、天使たち、すでに死んで天国にいる聖徒、地上に生きている聖徒を包括した不可視的な共同体である。
 「神の国」に生きる者も、神を礼拝し信仰生活を送るには地上の平和を必要としているのであって、「地の国」国家の法秩序を尊重する。また、「地の国」に生きる者も将来「神の国」に移されることもありうる。最後の審判までは、この現世においては「神の国」と「地の国」はまじりあって進むのである。
 

7 西ローマ帝国は476年に滅亡し、以後約1000年間、ゲルマン諸民族が政治・社会の担い手となる。
  しかし、中世においてもアウグスティヌスの思想は神学者や哲学者に大きな影響を及ぼし続けた。宗教改革を行い、アリストテレスを糾弾したマルティン・ルターもアウグスティヌス修道会の修道士であった。
  一方で、13世紀はアリストテレスの著作が発見された時期である。
  当初教会はアリストテレスが世界の永遠説(創造説の否定)、神の超越ではなく神の内在、人間の自由意思の否定、霊魂の単一論を主張しているので、キリスト教の教義と相容れないと判断し、アリストテレスの研究・教授を禁止していた。
  しかし、教皇グレゴリウス9世は1231年にアリストテレス研究をパリ大学教授に依頼し、アリストテレス主義とキリスト教の調和を見出そうとした。
  そして、トマス・アクィナスはアリストテレスの著作の註解書を書き、アリストテレスを導入したトマス独自の神学体系を築きあげ、アリストテレスと西欧キリスト教を総合しようと試みた。つまり、ヘレニズムとヘブライズムの総合の試みである。
 

8 スペインでイスラム教徒に対する宣教活動を行っている同志の求めに応じて、トマスは異教徒に対してキリストの福音を弁証した「対異教徒大全」を著したほか、「神学大全」も著している。
  アウグスティヌスは「神の国」と「地の国」を対決させたが、トマスはこれらを階層的秩序として位置付けた。神の創造の秩序は神→天使→人間→動物→植物、というように階層的秩序を構成しており、あらゆる存在はその本性に内在する目的の実現を志向するという目的論と、それ固有の役割を果たすことによって全体の統一と完成に寄与し、それによって存在理由を獲得するという有機体論によって構成された目的論的自然観をトマスは提唱した。
 

9 キリスト教の超自然的な啓示と自然的な理性は相互に区別され、自然的理性の領域の自立性が承認され、両者は調和するものとされる(「恩寵は自然を破壊せず、これを完成する。」)。
 トマスの人間観では、理性的な存在としての人間が前面に出てくる。原罪によって神の似姿は損傷を受けるが、完全に破壊されるのではなく自然本性の善を全く取り去ってしまうものではない。意思は弱体化するかもしれないけれど、理性的認識は可能だというのである。
 トマスは地の国の法についても、「共同的なる幸福への秩序を配慮することが法に固有の働きでなければならない」と述べ「共通善」の達成が法の目的であるとした。そして、神の摂理、世界統治の理念である永久法と、理性的被造物が永久法に参加するときに自然の光、理性によって把握する「われわれのうちなる神的光の刻印」である自然法からなる。
 自然法の内容は、第一に自己保存、第二に種の保存、第三に共通善に追求、である。
 

自由民の生活は国家なくしては不可能であり、ただ国家を通してのみ人々は善き生活を営み、共通善を達成できる。国家は、すべての必要に答える自足性を有する完全な共同体であり、法の強制力、生活に必要なすべてのものの充足を通じて、平和を確立し、衣服・住居・食物といった外的・物質的条件を保障する責任を負っている。
  アウグスティヌスが異教国家を罪の所産とみなしたのとは反対に、トマスは国家に積極的な価値を付与し、国家を倫理的共同体とみなした。トマスはアリストテレスの継受を通して、古典古代の国家観を復活させたのである。そして、トマスの国家観は、アウグスティヌスのそれのような単なる支配機構ではなく、共通善達成を使命とする徳の共同体なのであって、ここにヘブライズムとヘレニズムの融合した国家観がみてとれる。」(3195字)
 

レポートを書いてみた。


バカベンは「それでいいのだ!」ではすまされない。

商品を勝手に送りつけて代金を請求するという古典的な事件がありました。ちょっと近代的なのは、代金債権をサービサーに譲渡していて、サービサーが弁護士に回収を委託していること。で、その弁護士に「売主に取りに来いと言ったけど取りに来なかった」と指摘したら、「それは売主と買主さんの問題でうちはサービサーの代理人なので売主さんとの間で決着をつけてもらわないと請求せざるを得ないです。」と相手の弁護士が言うので、まじで呆れたもんだから僕も大阪弁になって、
僕「あほ!売買代金請求の請求原因言うてみい!」
バカ弁「意思表示の合致・・・」
僕「そんな学部の2年生みたいなこと聞くかボケ!売買代金請求の要件事実言え!」
... バカ弁「…検討します。」
僕「検討するまでもないやろ!売買契約の申し込み、承諾、基づく引き渡し、代金債権の譲渡原因か代金債権の回収の委託、だろ?」
バカ弁「はあ・・・」
僕「サービサーの請求だろうがなんだろうが売買契約の申し込みが抜けてたら請求原因立たねえだろ」
バカ弁「いまは交渉段階なので・・・」
僕「あほ!通知書に法的手続きを取りますって書いとるやんか。おまえ何期だ?」
バカ弁「63期です。」
僕「2000人時代の弁護士はダメだな。出直してこい。」
バカ弁「はあ・・・」
 

いま、若い弁護士に仕事を頼んじゃいけません。司法改革で弁護士が増えて、質がものすごく悪くなっていると実感しました。


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