今日、中沢新一のエッセイを読んでいました。
そんなに難しい本ではありません。講談社の「爆笑問題のニッポンの教養」というシリーズです。
そうしているうちに、弁護士会で僕が所属している派閥のメーリングリストで、多重債務問題など自分のキャリアアップにならない仕事をしても時間の無駄、という挑戦的なメールが流れてきました。
「ご批判を。理論は議論によって進化します。」と書き添えて。
そして思ったことは、理論を進化させること(だけ)が、肯定的価値をもつものなのだろうかと。直感とか情緒とか、そういったものをもっと肯定的にとらえてもいいのではないかと(これは爆笑問題の太田光が言っていることの受け売りですが。)。
芸術は、7万年のときをこえて、生き続ける。
いまをたのしいと思うきもち、ものを美しいと思うきもちは、生きていく上で、かけがえのないもの。
だから、芸術家は後世に名を残す。
キャリアは、無くても生きていける。
キャリアパーソンの名前は、記憶に残せる範囲でしか、歴史に名を残さない。
私の友人で、「東大法学部の男は馬鹿」と吐き捨て総合文化研究科に進み、オーストリアでフィルムの復元をしている人がいます。
最初は「やっぱ変な奴」と思っていましたが、最近、その言葉の意味が分かる気になってきました。
理論は、村上春樹がエルサレム賞受賞スピーチで触れた「システム」を作るものです。
それは当初は私たちの利益のために作るものですが、あるときそれ自身の命を身にまとい、今度は私たちを殺しに、あるいは私たちをして他者を殺さしめる自身の意思を持ち始めます。
それに対して、私たちひとりひとりは、こわれやすい、魂を殻にとじこめられた卵です。
「高く固い壁と、それに当たって砕ける卵の間では、私はつねに卵の側に立つ。いかに壁が正しく、卵が間違っていても、卵とともに立つ。」
村上春樹はガザ侵攻のさなかに、イスラエルの大統領の前で、そう言い切りました。
理系は理論を突き詰めることで(それがいいことかどうかはさておき)社会を進化させますが、文系は理論を突き詰めることで、社会のかじ取りを誤ることも起こり得る。理論的には、新自由主義を突き詰めることで金融不況を招くことはありえなかったはずなのです。
ロバートカトナーは、「およそ50年間の回り道をした後、我々は、多元主義、平和、そして社会経済計画という1944年の課題に戻った」と総括しています。
ニューディール政策を主導したケインズは、深遠で徹底的であるというよりは、直観的であったのです。(間宮陽介「増補 ケインズとハイエク」(ちくま学芸文庫2006年)61頁では、「7人の経済学者に質問を発したところ、8つの答えが返ってきた。そのうち2つはケインズからのものだった」というケインズを皮肉ったジョークを紹介しています。)
結局、理論を追うことは、回り道なのです(それが悪いとは言いませんが。)。
人間のもっとも人間らしい状態というのは、いまの社会では表面に出てこないし、評価もされない。
そこを主題にした修士論文は、不合格になりました。
でも、非常に重要なのではないかと、思っています。
コメント (1)
某国立大学法学研究科に通ってたとき(東大に対しての西方面)
そこの学生ちゃんら、世の中教科書通り、教科書に載ってない言葉は分からん、んなこと言うんは変人言うとったわ
世の中教科書通りならそれこそ法律いらんやろ
何でも本の受け売りしか知らん経験値のない世間知らずの学生と社会人ばっかりやったわ
そこの教授が言うとったけど、うちの学生ら就職したら1000%使いもんならん言うて苦情くる言うとったわ
それでσ(`ε´)を教授室呼んで皆をかきまわしてくれ言うて頼まれたことあるけどな
まあ教授によりけりやけど、教授の中でも世間知らずの学者もおって、ええ年こいて世の中教科書以外のことはあり得ん言うとったオッサンもおったけどな
佐藤はん、その類の教授に論文出しても頭かちこちやねんからアカンがな
投稿者: 匿名 | 2009年02月22日 22:20
日時: 2009年02月22日 22:20